キスの日ネタ跡日(遅刻)
「ほら、テメーからキスして来いよ」
どうしてこうなった。
跡部さんの膝の上で、俺はそればかりを考えていた。
「知ってるか。今日はキスの日らしいぜ?」
そんな事を言い出した跡部さんの悪企みの気配に、俺は身構えていた。
跡部さんは、いつも、俺の意思を無視して勝手にキスをして来る人で。
しかも、そういう勝手な振舞いを俺が嫌がっていないと思い込んでいるらしい。
確かに、付き合い始めてキスどころかそのずっと先まで、何度もやってはいるのだけれど。
それでも俺はそういう事に慣れないし慣れたくもない。
そういう事に慣れ過ぎて鈍感になって、たまに電車で出会うカップルのように、人目も憚らずにキスをするような関係になってしまったりなんかしたら、非常に好ましくない。
俺は、こういう恋愛ごとについては、日本古来の奥床しさを忘れてはならないと思っている。
そして、俺の理想が奥の間の床だとしたら、跡部さんは、むしろ玄関の天井あたりに感情表現を置いてる人だ。
もし俺が構わないと言ったりしたら、全校集会の壇上に俺を呼んでキスする位やりかねない。
俺はあの人の屋敷の中だって、人前で恋人らしい振舞いをするのは嫌だ。
でも、そう嫌だと言っているのに、跡部さんは構わず俺の腰に腕を回してきたりするんだから。
この人と付き合っていると、色々、非常識な事に鈍感になっていく。
跡部さんは派手な振舞いばかりするから。
だから俺は、氷帝コールにも、試合前のパフォーマンスにも。
フェンスに張り付く雌猫達の黄色い悲鳴にもすっかり慣れてしまった。
俺は、跡部さんの強い引力を警戒している。
でも、警戒していたって、この人と付き合っているうちに、俺は、どんどんこの人の方に近づいてしまっている。
付き合っているうちに、次第に感化されてしまう。
先日、何でも奢ってくれると言った向日さん相手に、危なく「じゃあフレンチがいいです」と言いそうになった。
あの人の小遣いじゃ、モスバーガーあたりでも蒼白になるだろうに。
その前には、切原相手に焼肉の話しになって、跡部さんの屋敷で食べるローストビーフがどれだけ旨いかを力説してしまって、大層羨ましがられた。
とろけるようなローストビーフそのものはもちろん、しっかり肉汁を吸ったヨークシャープディングもまた旨くて堪らないと言ったら、次は俺にも声掛けるように言ってくれって頼み込まれて――。
――いや、そんなことはどうでもいい。
最大の問題は、今の俺の状況だ。
俺は今、跡部さんの膝の上にいる。
跡部さんの部屋の洗面所の、背もたれの無いスツールに腰掛けた跡部さんの太腿を跨いで、腰を下ろしている。
俺のウエストには、跡部さんの手ががっちりと回っていて、逃げられそうにない。
そうして、跡部さんが薄くニヤつきながら、俺の顔を見上げて――キスを待っている。
「どうした? 何をビビってやがる? キスなんて何度もしてるじゃねーか」
「……ビビってなんかいません」
反射的に言い返した俺に、より一層おかしそうに笑う顔が寄せられて。
「なら、何の問題もねーじゃねーの」
そんな事を言いやがるのだから。
問題なら大いにある。
大体こんな事、こんな風にさあしようなんて準備してやる事じゃない。
それにいま、俺はキスするような気分でもない。
いつも仕掛けて来るのは跡部さんの方だし。
俺の唇はがさがさしてて、そんなもんを押し付けるのも気が引ける。
それなのに跡部さんは、背もたれの無いスツールに座って、俺を膝に座らせ、両手で拘束して。
俺の目と鼻の先で、端正すぎる顔で笑っている。
緩く外側へと向かって跳ねる前髪の下。
流氷の断面のような色合いの瞳が、じっと俺に向けて据えられていて。
こんな風に真正面から、しかも少し上からこの人を見下ろすことなんて滅多にないから。
だから無駄に心臓がばくばくいって、見ていられなくなる。
「なんで俺がアンタにキスしてやんなきゃならないんですか。おかしいでしょう」
目を逸らそうとしたら、不満そうに眉が吊り上ったのが見えて、俺は諦めて溜息を吐く。
本当にこの王様は、自分の思い通りにならないとすぐに不機嫌になるのだから。
「今日はキスの日らしいじゃねーか。恋人とキスするのに、一体、何のおかしいことがある?」
「おかしいですよ。こんな風にはいしましょうって言ってやる事じゃない」
「でもテメーは俺が予告なくキスすると嫌がるじゃねーか」
「急にするからですよ。びっくりするでしょう」
「じゃあ、こうやって、はいしましょう、って言ってやるしかねぇじゃねーの」
全く、この人の言う事にはなんでもイエスと言ってやるしか方法はないのだろうか。
思い通りになんかなってやりたくないと、俺のちっぽけな矜持が主張する。
「なら、俺は今、キスするような気分じゃありません」
「俺様の気分に合わせようって気はねぇのか? アーン?」
我儘なものの言い方に、少しばかりカチンときた。
派手好きのこの人に、俺はずいぶん譲って合わせてやっているはずだ。
そりゃ人前でのキスやなんかは嫌がるけど、それは常識的に俺の方が間違っていないはずで。
なら、たまには、俺の方に合わせてくれたっていいじゃないかと、そんな風に思う。
「いつも合わせてやってるでしょう。逆にアンタが俺の気分に合わせた事がありましたか?」
「俺様がいつも合わせてやってんじゃねーか。
大体、テメーはいつも雰囲気も考えずに『アンタ、やりたいんですか?』なんて訊いてきやがる癖に」
ぐ、と、言葉に詰まる。
確かに心当たりはあった。
普段を知ってる身にしてみれば信じられない程、甘い囁き、甘い声音で、この人は、俺をベッドに誘ってくれる。
でも、そうやってベッドに誘われたって、この体は、何の準備もなしにこの人を受け入れられるようには出来ていない。
折角の甘ったるい空気に、俺だって、何も好き好んで冷や水を注してる訳じゃない。
白けるのを承知で甘い話の腰を折る、俺の方だって辛いのに。
「雰囲気って、……俺の方にはいろいろ準備しなきゃならない事があるんですよ!」
「……ンな事は分かってる。だからソコは事務的にやってんだろうが」
跡部さんが低く押し殺した声を出した。
これでもかと寄せた眉間の皺は、触れたくない話題に触れた時の癖。
「なら、分かってるなら俺に雰囲気なんて求めないで下さいよ!
アンタにそれ聞く時、俺がどれだけ恥ずかしいか分かってるんですか!?」
「その位の想像はつくから普段は言わねぇでやってんだろ!」
「普段は言わなくても今言ってんじゃないですかアンタ!
そうやって不満に思っても恩着せがましく黙ってたんでしょうが!」
「あぁ!? 言ってもどうしようもねぇような事言わせたのはテメェだろうが!」
滅多に怒鳴らない跡部さんの怒鳴り声に、頭が一気に嫌な熱を持った。
「もう少しそれとなく言ってくれれば俺だって考えますよ!」
跡部さんの言う通り、こんなの、どうしようもない話だ。
でも、俺の頭の中ではグルグルと、“俺が男なのが悪いのか”なんて、そんなネガティブな思考が回り始めていて。
女みたいにすぐにでも抱かれる事のできる体なら、こんな言い争いもないし、この人と付き合うことに何の負い目もないのかと、そんなことまで考えてしまう。
「嘘つけ。テメーはすぐに悪く受け取って凹むじゃねーか!」
まるで今の思考を見透かすような事を言われて。
それが悔しくて悔しくて。
俺は。
一層声を荒げた。
「悪く受け取るもなにも、アンタは、悪いって思ってるからこんなこと言うんでしょう!?」
俺は相変わらず跡部さんの膝に座らせられたままで。
跡部さんの両手は俺の腰だし。
俺の両手は跡部さんの肩を掴んでいる。
こんな状況で、こんな喧嘩がしたい訳じゃない。
あんまり悔しくて、涙まで滲んできた。
「別にその程度、そこまで悪く思っちゃいねぇぜ。少しは気ぃ使えとは思っちゃいるけどな」
俺の剣幕に少し冷静になったのか、跡部さんは怒鳴るのを止めたらしい。
でも、それが余計に俺の気に障った。
なんでも知ってるような顔をしてる癖に。
本当は、俺の事なんて、分かってくれていない癖に、と。
「どうせ俺は気の利かない奴ですよ!
雰囲気にだって鈍感だし、アンタ程勘も良くないし、口下手だし、不満があるなら――」
いっそ、別れたっていい、と、言おうとして。
俺の腰を掴んでいたはずの手が片方。
捲し立てようとする俺の口を顎ごと掴んで、俺を強引に黙らせていた。
「バァカ、何言ってんだテメー」
跡部さんは呆れた顔をしていた。
「俺様ほど勘が冴えてて、会話術に長けて、雰囲気作りの上手い奴が、他にいる訳がねぇだろう? アーン?」
「……」
顎を掴む手は離してもらえなかった。
「なるほど、俺様と比べたらコンプレックスが山ほどできるのは仕方ねぇ。
何しろこの俺様は才能に溢れた男だからな。
だが、残念なことに、この世に俺様は一人しかいねぇ。
テニスや、統率力、それに顔だけを見れば、そりゃ時々は俺様に並ぶような奴もいるだろう。
だが、総合的に見た場合に、俺様とすっかり同じだけの能力を持つような奴はいねぇ。
それが分かっていながら、この俺様が、この俺様の完璧さを他人に要求できる訳がねぇだろう?」
「…………」
「だからつまり、テメーが万事において俺様に及ばねぇ事を、気に病む必要はねぇ」
「……………………」
跡部さんは、何故だか無駄にドヤ顔だ。
顎を掴む手は、まだ離してもらえていない。
だから俺は、跡部さんの手を無理矢理ひっぺがして。
唇を押し付けようとしたけど、目測を誤って歯と歯がガチリとかち合う音を立てた。
「痛ぇ。何しやがる」
「……少し黙って下さい。キスしますから」
「アーン? どういう風の吹き回しだ?」
跡部さんは再びからかうような笑みをその口元に乗せていたが。
俺は今の失敗でテンパっていて。
がさがさの唇を一つ舐めて、そっと顔を近づける。
キスなんて、何度もしてる。
それこそ体を重ねる時には、無意識に何度も。
体の境界が分からなくなるまで溶け合ううちに、唇の奥で舌を絡ませてる。
でも、今の俺は、快楽に酔ってもいないし、跡部さんはリードしてくれそうにない。
だから。
情けない位に恐る恐る。
「ん」
鼻梁と鼻梁を寄せ合うように、まず唇の端に触れた。
すぐに顔を引いて、少しだけ視線を合わせて。
確かめるように、唇の中央同士を触れ合せて。
唇で、まるで柔らかい果物にでも触れるように柔く、そっと、そっと触れる。
それだけで、じん、と、背筋が痺れた。
夢中になって何度も触れようとしたら、跡部さんが少し顔を引いて。
目を細めながら、鼻先を軽く触れ合せる。
「がっつかなくても、俺は逃げねぇぜ」
そう言いながら、俺の腰を一層深く引き寄せるから。
俺は両足で跡部さんの腰を抱え込むようにしなきゃならない。
俺の腹と跡部さんの胸が触れて。
俺はキスするのに、背中を丸めなきゃいけなかった。
跡部さんは目を軽く伏せて、軽く上を向いてくれていて。
俺は片手で跡部さんの項を支えながら、舌先で歯列を抉じ開けた。
唇を深く重ねて舌を押し込んだら。
俺の腰をまさぐっていた跡部さんの手が、シャツの中に潜り込んで来て。
そのぞわぞわとする感触に腰が引けそうになる。
でも、いつの間にかまた俺の腰を抱え込んでいた腕にそれは遮られて。
熱くなってくる肌に、ひやりとした跡部さんの手が這って。
俺は唇を離して、堪えていた呼吸を繰り返す。
「息止めてんじゃねぇよ」
跡部さんが喉で笑った。
その形のいい唇が、俺の唾液で濡れてるのが分かって、また息が詰まる。
「ほら、終わりじゃねぇだろ?」
酸欠で頭がぼうっとしたまま。
俺は三度、跡部さんの唇に触れた。
俺のシャツはたくし上げられてて、脇腹を指先で擽られる。
今度は深く吸い付かずに、唇を濡らす唾液を唇で拭うようにしたら。
跡部さんが俺の髪の中に指を埋めるようにして、俺を捕える。
指先が、俺の頭皮まで愛撫するかのようで。
突き出した舌に上顎の裏まで舐められて、ぞくりと身震いが走る。
密着する腹と腹が、熱を帯びてる。
ぴちゃ、ぴちゃと唇の間でいやらしい音が立って、思わず内腿に力が籠る。
粘膜が滑りあう感触にゾクゾクして、また息継ぎを忘れそうになる。
鼻息なんか触れてもいいのかと思う反面。
お互い様に俺の頬を擽る呼吸は嫌ではなくて。
お互いに頭を掴み合う、貪るようなキスは、ひどく、理性をもっていく。
甘く啄み合った舌が解けて。
少し乱れた呼吸と、薄ら赤くなった頬と。
そんなものを確かめるようにじっと見つめながら、余韻のように、柔く唇が触れ合って。
俺はついに羞恥心の限界が来て、跡部さんの肩に顔を埋めた。
「やれんじゃねーか」
跡部さんは、まるで小さな子供をあやすように、俺の背中をぽんぽんと撫でている。
いつの間にか胸までたくし上げられていたシャツも降ろしてもらえた。
「……」
返事する言葉が見つからない。
「あっさりしたキスかと思ったら、ずいぶんと情熱的なキスになるから驚いたぜ」
最初の口元に軽く触れるだけのキスでも良かったのかと、うすぼんやりと俺は後悔した。
「……やりこめられたままでいるのは嫌なんです」
上唇と下唇が触れる度、つい今さっきまで、この唇が跡部さんに触れていたんだと、そう実感する。
唇に触れて、口腔を舐めて、唾液を飲んだ。
そんな行為にもさして嫌悪感は感じない。
少し不思議だ。
使い回しの箸だって俺は使う気にならないのに、この人とは、そんな事だってできてしまう。
「……アンタがしたいって言うんなら、キスくらいしてやったっていいですよ。だから」
「だから?」
いつもなら、言いにくい言葉は跡部さんがいつも引き取ってくれるのに。
今日はそうしてはくれないらしい。
「……」
「なんだ、若?」
跡部さんの肩に押し付けたままの額を左右に揺らす。
この人は、俺をずっと膝に乗せたままで足が痺れたりしないんだろうか。
「どうした? テメーにしては随分と今日は甘えたじゃねーか」
耳の傍でくすくすと笑い声がして、頭を撫でられた感触があった。
ああ、もう。
こうやって甘やかされているうちに。
俺は、この人にまた慣れてしまうんだ。
袖口で唇を拭って、顔を起こした。
俺と目が合った跡部さんの口元が楽しげに笑う。
「だから、……だから、俺のする事が気に入らない時には、もっとちゃんと、俺が分かるように言って下さい」
そう言ったら、跡部さんが驚いたような顔をした。
なんだ。
分かってなかったのか。
「俺は……アンタと、あんな喧嘩、したくないんです」
言っている内に顔が熱くなる。
「俺は、生意気で、可愛くない奴だっていう自覚はありますけど」
思い出して、少し、悔しくなる。
あんな風に不満を隠されていたことが。
「……あんなことでアンタを怒鳴らせるのは、正直、キツいですから」
勢いで、心にもない事を言ってしまいそうになって。
言わせられなかったことを、今、感謝してる。
「別に不満って程じゃねぇ……怒鳴って悪かったな」
跡部さんの手が、俺の頬を撫でた。
「顔、真っ赤じゃねーか」
「アンタに嫌われたくないって思ってるなんて事を、言いましたからね」
俺の前髪を整った指先で弄って、跡部さんがそのまま髪を軽く引っ張った。
「少し屈め」
「なんでですか」
「キス出来ねぇ」
引き寄せられるままに唇を近づけたら、一つ、二つ、軽く唇が触れて、背中を強く抱きしめられた。
「この俺様がテメーを嫌う訳ねぇだろ?」
自信たっぷりに囁かれる声に、脳が痺れる。
この人の声には、頭を駄目にする麻薬でも含まれてるんじゃないのか。
もしくは、猫にまたたびが効くように、なにかそんな、俺の正気を失くして酔っぱらわせるような効果があるのかもしれない。
そうだ。
俺は、この、人一倍綺麗で、テニスの上手い自信家のこの人に。
心全部で、酔っぱらっているに違いない。
「……跡部さん。もう一度、俺からキスしてもいいですか?」
「恋人にキスするのに、許可なんていらねぇだろ?」
そう言ってくれるだろうと思いながら尋ねたその返事は、俺が思った通りのもので、思わず俺の口元が緩む。
顔を寄せようとしたらぐいと引かれて。
キスしたのかさせられたのか良く分からないような口づけを繰り返して。
そうして、何故か、縺れ込むようにして、隣の浴室に籠る羽目になった。
……浴室の中の事は、またいずれ。
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