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2024.05.18 (Sat)
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【キリヒヨ】塩辛い指【SCC23新刊サンプル】


U-17合宿で発生した、跡部(攻)←日吉(受)←切原(攻)の三角関係のお話

本はキリヒヨEND(R-15)になります。

苦手な方はお戻りください。



























――その日は、朝から試合続きで。

俺達は、自分の試合の順番を待つ間、先輩達の試合を見て歩いた。

俺は、ブン太先輩の妙技を同室の奴らに見せてやりたくて。
ブン太先輩と、高校生の試合を、同室の奴らと一緒に見てた。

結果はブン太先輩の圧勝で。

自分の事のように喜ぶ俺を見つけた先輩は、俺に、プリッツを一袋くれたんだ。
サラダ味の、そう、あの表面に塩が振ってある、しょっぱい奴。

俺達は、まだ自分の試合まで時間があったし。
次に誰の試合を見るか決まっていなかったから。

ブン太先輩にもらったプリッツを、芝生に出て食べながら、試合表を眺めてた。

「次は誰の試合見るよ?」

「あー、うちのラブルスは見ても収穫無いと思うで」

「……不二先輩の試合は終わっちまったか」

「忍足先輩の試合がもうすぐだな。それに、跡部部長も」

「じゃあ、跡部サンの試合見ようぜ。面白そうじゃん」

そんな事を言いながら、プリッツの袋を回して、食ってた。

そうしたら。

「アーン? 俺様の試合が面白くねぇ訳ねぇだろう?」

頭の上から、跡部さんの声が降ってきて。
俺は飛び上がりそうな程、びっくりしたんだ。

だって『跡部サンは馬鹿っぽいくらい派手だし』とか、言おうとしてたから。

「日吉、いいもん食ってるじゃねーの」

明らかに催促する口調で、丁度プリッツの袋を持ってた日吉に、跡部さんは声を掛けた。

日吉は眉を顰めながら、「食いますか?」と一本、袋から摘み上げて、跡部さんに差し出した。

そうしたら、跡部さんは日吉の肩に手をついて、屈み込んできて。
日吉が摘まんでいるプリッツを、そのまま齧り始めた。

俺らみんな『おいおい』って、思ってたと思う。

でも日吉はいつもの無表情で、誰でも、自分が食べる時にそうやるように、プリッツの後ろ端に指を当てて、口に押し込んでやってた。

「……慣れてんな」

海堂がそうぼそっと言ったら。

「うちにはジロー先輩がいますから。
 あの人もよく人の手からポッキー食ってますよ」

なんて、よく分からない返事をした。

一本のプリッツなんて、当然、食い終わるまであっという間で。

日吉が最後の端っこを跡部さんの口に押し込むと。
跡部さんの唇が、日吉の指に押し付けられるのが見えた。

「……しょっぺえ。甘い奴じゃねぇのか」

跡部さんの感想は、たった一言。

日吉は眉を寄せて。

「食い終わる前にそのくらい分かるでしょう。人から食っといて不満言わないでくださいよ」

そう、跡部さんに文句を言った。

「アンタ、そろそろコートに行かないと、試合始まるんじゃないですか?」

フン、と、日吉が不快そうに鼻を鳴らし。
跡部さんが、時計を見上げた。

「ああ、確かにそうだな。
 俺の試合を見に来るのはいいが、見惚れて自分たちの試合忘れるんじゃねぇぞ」

跡部さんは、茶目っ気一杯にこちらに流し目を送ってみせて。
背中を向けると、肩ごしにひらりと手を振って、コートの方に向かっていった。

「跡部部長の試合見るなら、先に行っててくれ。
 ……手ェ洗ってくる」

日吉は、立ち上がってさっさと宿舎の方に行ってしまう。

「じゃあ行くか?」

海堂が声を掛けて、財前も頷いて立ち上がる。

「俺、ちょっと便所寄ってから行くわ」

「なら先に行くで」

「おう」

俺も、日吉が戻った宿舎の方に向かった。

速足で階段を上れば、他に人気のない通路の陰に、日吉が立ち止まっていて。
思わず、俺も立ち止まった。

何をしているのか、と、思えば。

今まで見たことがない位、苦しそうな顔で、目を伏せて。
さっき、跡部さんの唇が触れた指に。
唇を触れさせていて。


――間接キスだ。


そう思った途端、見ちゃいけないものを見たような気分になって。

全身が心臓になったみたいに、ドキドキした。


――アイツ、跡部サンのことが、好きなんだ。


指にキスする、日吉の苦しそうな顔を見たら、すぐに分かった。
あれは、片思いしてる顔だと思った。

眉を寄せて、今にも泣きそうな顔で。

ほんの一瞬、唇に触れただけの指先に、大事そうにキスするなんて。

そんな、消えてなくなってしまいそうなキス、今まで、見たことも聞いたこともない。

俺は、日吉に気づかないフリをして、一直線に、宿舎に走った。

なんで、こんなにドキドキしてるのか、分からないままだった。

[newpage]

それからずっと、ずっと、日吉が気になってた。

目のすぐ上までを隠すような長い前髪が勿体ない。

薄い色の髪は、染めているんじゃなくて、天然なんだと聞いた。

首を傾げて、耳の下、髪の境目を掻く癖があって、その辺りがいつも薄赤い。

たまに、切れ長の目で視線を流すのが堪らなかった。

暇があると、空を見上げてる。
呼んでる小説は、なぜか怪談が多い。
UFOとか、不思議な話がとにかく好きらしい。

寒がりなのか、動いていない時は、よく、ジャージに首まで埋めている。

寝てる時に聞こえてくる吐息に、ぞくぞくする。

よくよく見るとすげえ綺麗だと思った。

砂漠の砂みたいな色の髪と、薄い色の瞳はセットにしてあるみたいで。
全然女みたいじゃねぇのに、いつも不機嫌そうな顔してるのに、見てるとすごくドキドキした。

風呂上りにも、上半身裸になったりしなくて。

必ずシャツを着てるから、一緒に風呂に行くと、どこを見たらいいのか分からなくなる。

俺よりも背が高くて。

でも俺より細くて、ひょろっとしてて。

背中から腰に掛けてのラインが、やけにエロくて。

部屋にいないかと思うと、実はいたりして。

全然どういう奴か掴めない。
でも、それが嫌じゃない。

氷帝の先輩達には、特に可愛がられてもいないけど、かといって、仲が悪い訳でもないらしい。

たまに跡部さんと一緒にいるのを見る。
あんな大事そうに、指に間接キスしていたのは、俺の見間違いじゃないかと思う程、日吉はそっけない。

日吉は誰に対してもそっけないけど、跡部さんにはそっけない上にぞんざいだ。

でも、それが日吉なりの、“特別”の扱い方なのかもしれないと思えば。
とてもじゃないけど、気持ちが伝わりそうにないその不器用さに。

少しだけ、俺にもまだ希望があるんじゃないかと、思ってしまう。

チューしたい。
ギュッてしたい。
滅茶苦茶にしたい。

そう思った日には、日吉で抜けた。

怒らせて睨ませたい。

手酷く扱って、涙目にさせてやりたい。

――まともに笑ったところを見たことがないから、笑ってみて欲しい。

いつもどこか憂鬱そうにしていて、良くて無表情で。
たまに、首筋をいつものように掻いているときだけ、何か思い出すように口元が幽かに笑ってたりする。

何かを思い出す時の癖なのかな、なんて、その時、俺はそんな幸せな事を考えていた。

俺は、いつの間にか、指にキスしてた日吉の、苦しい顔をした気持ちがわかるようになっていた。

――俺も、日吉のことが、好きになっていたから――。

[newpage]

――その日は夕方から土砂降りで。

ざあざあと耳障りな音が、薄暗い宿舎をよりじめっとさせていた。

俺にはずっと、日吉が知っているかどうか、気にかかっていることがあった。
負け組のアイツは、あの時、まだ崖とやらにいた筈だったから。

手塚さんがドイツに立つときに、跡部さんが言った言葉。

部屋ではきっと、勝ち組の俺しか知らない。
それも、3番コートとの入れ替え戦にいた、俺と、あと少しの奴しか。

もう跡部さんから聞いてるんだろうか。

あの時は、氷帝の慈郎さんもいたはずだ。

日吉はまだ知らずにいるんだろうか。

知ったら、どうするんだろう。

泣くのか。
怒るのか。
絶望するのか。

――受け入れるのか。

俺は、きっと跡部さんは、まだ、日吉の気持ちを知らないんだろうと思っていた。

だから、俺にも少しは希望がある、なんて、そんな風に思っていた。

その日、偶然。

跡部さんがやや強引に、日吉を物陰に連れ込むのを。
見てしまわなければ。

普通じゃなければ、そんなところには誰も踏み込まないような。
宿舎と、倉庫の間の、目立たない扉。

もう使わないような計器類や、古くなったネットが押し込まれていたから、廃棄物の保管庫なのかもしれない。
なんにしろ、建物と建物の隙間にあるその扉には、誰も近づく訳なんかなくて。

だからきっと、鍵も掛け忘れたか何かで。

思わず追いかけた俺が見たのは。
床に座っているらしい日吉の足と。扉を閉める腕。

すぐに、カチャリと、鍵がかかる音を聞いた。

明かりなんか、いつまで待っても灯らなかった。

立ち尽くしてても、雨粒がトタン屋根を打つやたらに五月蠅い音以外、何も聞こえては来なかった。

なんで。

あいつは。

――片思いなんじゃ、なかったのかよ。

扉の向こう。

その窓は暗いままだ。

頭の中がぐちゃぐちゃになった。

走って、部屋に戻って、カーテンを引いて、ベッドに籠った。
きっと今頃、俺が妄想の中でしてたようなことを、日吉は跡部さんとしてる。

あんな薄暗い、埃臭そうなところで。

少しくらい物音を立てたって。
今日の雨じゃ、雨音に、みんな掻き消されるんだろう。

今だけは、嬉しそうな顔してるんだろうか。
今だけは笑ってるんだろうか。

ベッドの中で頭を掻き毟って。

海堂と財前が飯に出たのを見計らって、こっそり、また、日吉で抜いた。

今までのぼんやりした妄想より、ずっと具体的になった。
どんな顔して、縋るのか。
どんな風に喘ぐのか。

――妄想の中の日吉の相手は、俺じゃなくて、跡部さんだった。

一発抜いて、我に返って。

恥ずかしくなって、始末をして、部屋の窓を開けて空気を入れ替えた。

何してるんだ、俺。

とりあえず便所に行って、もう一度抜こう。
そして、頭冷やそう。

そう思って部屋を出たら。
向こう側から日吉が来た。

足取りも、何も、普段と変わらない。

相変わらず憂鬱そうな顔をしてて。
でも――ぞくっとする程、やらしい顔をしてるように見えた。

思わず、俺は日吉の腕を掴んで。

「日吉、ちょっと来いよ」

そのまま有無を言わさずに、一つ向こうの、誰も使わないような。

奥の便所に、連れ込んだ。

「……一体、なんの用だ切原」

日吉は俺に無理やり引っ張って来られたことで、一層不機嫌になったようだった。

細い眉が寄せられて、色の薄い目が俺を睨む。

「テメー、今まで、どこにいたんだよ」

そう聞けば、片眉を上げる。

「図書室だ。お前に何か関係あるのか?」

「嘘つくんじゃねぇ。あんな人気のない部屋で、鍵かけて、跡部さんと何してた」

ずばりと言うと、日吉の顔が少しだけ強張った。

「ハ。そこまで知ってるなら、聞く必要なんかないんだろ?」

チッ、と舌打ちして、忌々しいと言いたげに日吉の顔が歪む。

「本題はなんだ、切原」

「……お前、跡部さんとヤッたのかよ」

とにかく確かめたかった。

そんな事してないって、否定されたかったんだと思う。
でも、日吉は皮肉そうに眉を寄せて笑って。

「あんな所で、鍵かけて、二人でコソコソするような事なんて一つしかないよな。
 分かって聞いてるんだろ、お前」

日吉は――否定しなかった。

いまこうして、俺と向かい合ってるその体は。
ついさっきまで俺の妄想通りになっていたんだと、言っていた。

「お前、前に、隠れて、指にキスしてたよな。
 ――片思いじゃなかったのかよ」

信じたくなかった。

でも俺が言う言葉に、意外そうに瞬くと。

「趣味悪いな、見てたのか」

そう言って、顰めた顔を背けた。

「答えろよ」

狭い便所の壁に、日吉の背中を押し付けた。

潔癖症の日吉は不快そうに顔を顰めて、俺の手を振り払う。

「この合宿に来るずっと前から、跡部さんと付き合ってる。
 それがどうかしたか。お前には、何の関係もないだろ?」

そう答える。

――俺の好きな日吉は、苦しそうな顔をして、大事そうに指先に口づける日吉だ。

こわれものみたいな。
消えてなくなってしまいそうな。

苦しい片思いをしてるハズだった。

まるで当たり前のように、跡部さんと付き合っているなんて、言うはずがない。

日吉の返事に、俺の方がおかしくなってしまいそうだった。

だから、言うべきかどうしようか、ずっと迷っていた言葉が、つい、落ちてしまった。

「……日吉、お前知ってんのかよ。
 跡部さんが、手塚さんを追っかけて、ドイツに行くって言ってたこと」

日吉が目を見開く。

不意打ちされて、拳骨でいきなり後ろから殴られたら、こんな顔になるかもしれない。

そんな、顔をした。

でもそれも一瞬のことで。
すぐに、いつもの憂鬱そうな表情に戻ると。

「……だからどうした。切原、お前には関係ないだろう」

そう言って、斜め下の足元に、視線を逸らす。

俺は、頭から冷たい水をぶっかけられた気分になった。

日吉の奴の目は、静かで。

殴られたような顔をしたあの一瞬で、全部諦めて、飲み込んで、事実として受け入れたんだって、分かったから。

指先にキスしてた、その顔を思い出す。

――そんな事になることを、ずっと、覚悟してたんだと、思った。

いつか目の前からいなくなってしまうかもしれない人だから。
だから、あんな顔をしてたんだと、分かった。

「お前、跡部さんのことが好きなんだろ!?」

「だからどうした。お前には、関係ない」

「関係なくねェ!」

「一体何の関係があるって言うんだ。事情も知らない癖に、余計な気を遣って付き纏うな」

きつく突っ撥ねられて。

頭の中が真っ白になった。

俺は。

俺は。

関係なくなんかない。

ずっと、日吉の事、気になってた。

ずっと。

ずっと。

あのキスをしている日吉を見てから、ずっと。

俺は。

ずっと。

「――俺は、日吉のことが好きなんだ!」

言ってしまって。

一瞬の沈黙があって。

日吉の声がした。

「……だから?」

冷たい、冷たい声だった。

背筋が、悪寒で、ぞくっとした。

「だからなんだ。
 あの人がいなくなった後に、お前が、あの人の場所に収まろうとでもいうのか?」

怒ってる。
日吉が、めちゃくちゃ怒ってるのが分かった。

顔はいつも通りのいけ好かない無表情の癖に。

一気に冷えて、寒くなったような気がした。

「そんなんじゃねぇって!」

「なら、なんだ。
 言いたいことがあるなら、はっきり言え」

日吉の色の薄い目が、俺を睨みつける。

威圧されているようだった。

「俺は、俺は」

とにかく、悔しかった。

自分の気持ちを押し殺してる日吉も。
日吉の気持ちを持ってった跡部さんも。

無様なくらいに、諦めきれない自分も。

なんて言えばいいか、分からなかった。

だから。

思い切り日吉の肩を掴んで、後ろの壁に押しつけた。

そして、そのまま。

日吉に、キスした。

自分が何してるのか分からなかった。
歯が当たって、でも構わずに唇を押し付けた。

いっそ、噛みついてやりたかった。

日吉の奴は、すぐに思い切り眉を寄せて。

俺を突き放した。

「……下手くそ」

日吉は、吐き捨てるようにそう言った。

「キスってのは、こうやるんだ」

日吉は顎を上げて、せせら笑うように顔を歪めて。

俺は、目を、閉じることもできなかった。

日吉の顔が近づいて。
少し手前で、目が閉じて。

そのまま唇が重なって。

俺がしたのは、ただぶつかっただけとしか思えないような。
柔らかいキスをされた。

首の後ろを掴まれて、逃げられなくされて。
日吉の唇が、呆然としてた俺の唇を挟んで。
柔らかく、柔らかく唇で啄んで。

俺は逃げる気なんかこれっぽっちもなかったのに。

唇だけで何度も柔らかく触れて。
時々、唇の内側の粘膜の感触がして。

その感触が気持ち良くて、眩暈がした。

日吉は瞼を伏せてたから、睫毛がよく見えて。
意外に長くて、やっぱり睫毛も薄い色なんだ、と、そんなことを思った。

ちゅ、と、やけにエロい音がして唇が離れて。

「……キスっていうのは、こうやるんだ」

俺から唇を離した日吉は、泣きそうな顔をしてた。

「なんっ、だよ、お前……、なんで、こんな」

俺が、馬鹿みたいにそう言うと。

日吉は、あの、指にキスしてた時みたいな顔をして。

「……跡部さんは、俺より上手い」

そして、心底嫌そうな顔をして、唇をジャージの袖でごしごしと拭った。

俺まで殴られた気分だった。

こんな――こんなキス、したこともあるのか。

それなのに、指にキスして、あんな苦しそうな顔するのか。

日吉とこんなキスした癖に、手塚さんを追いかけて、跡部さんはドイツに行くのか。
ドイツに行くって言った癖に、日吉をあの部屋に連れ込んで。

――俺の妄想通りに。いや、もしかしたら、それ以上の。

「これで“あいこ”だ、切原――。
 お前が俺にキスしてきたことは立海の三年には言わないでおいてやる。
 だから、うちの連中にも、俺の事は黙ってろ」

「お前は――お前はいいのかよ!」

「俺? ああ、言いふらしたいなら好きに言えよ。
 男が好きな、気持ちの悪いホモ野郎だって」

「そんな事、言ってねぇだろ!」

きっと俺は、日吉は、取り乱して、泣き出したりすると、思ってたんだ。

いっそ、跡部さんの所へ、俺を置いて走っていってくれればいい、と。

でも、日吉は、怖いくらいに、潔く、受け入れて諦めた。

それが、俺に取ってはどうしようもなく不満だったんだ。

「煩い……お前に何が分かる」

日吉の声が低くなる。

「分かんねーよ!」

俺は半ば泣くような声で叫んでいた。

「でかい声出すな……ああ、もう今更だな。人が来る」

日吉が顔を上げれば。
荒々しい足音が聞こえて。

そちらに、日吉が、苦しそうな目を向けた。

「おい……喧嘩してんのは誰だ?」

日吉が姿勢を正すと、バン!と、ドアが蹴り開けられる。

白ジャージ。

長い足。

日吉が、その声を聞き間違う訳もないって、すぐに分かった。

日吉はその顔を見上げもせず、迷いもしないで、まっすぐ、深く頭を下げた。

「……跡部部長、済みません。俺が吹っ掛けました」

「日吉か。宿舎の前に正座してろ」

「分かりました」

日吉には、ためらいは一切なかった。
少し視線を落として、跡部さんを見上げようとしない以外は、普段と何の変わりもなくて。

やっぱり、さっきの一瞬で、全部、諦めたんだって、分かった。

跡部さんが手塚さんを追ってドイツに行くことも。
跡部さんが好きだっていう想いも。
全部諦めて。

ただの、できのいい後輩として、見送る覚悟を、もう固めたんだって、分かった。

「切原、テメーもか」

跡部さんの小さい溜め息が聞こえた。

こいつが、ドイツに行くなんて言わなければ。
日吉は、あんな殴られたような顔をする必要はなかったんだ。

日吉に、あんなキスを教え込んだ癖に。

日吉をあんなところに連れ込んで――抱いた癖に。

今だって、日吉は顔も見れずに俯いたまま、外に出て行こうとしてる。
原因がアンタだなんて言わずに、弁解もせずに。

理由と一緒に、自分の想いを殺そうとしてるのが分かる。

日吉は、あんな些細な、間接キス一つすら大事そうな顔をしたのに。

そんな日吉の想いを全部捨てて、コイツは、ドイツに行く方を選んだんだ。

そう思ったら――頭に、血が上った。

「……テメェッ!」

殴りかかった瞬間、跡部さんの青い目が瞬いた。

その一瞬の間に、黒いジャージが割り込んで。
俺の拳は、日吉の頬に食い込んでいた。

薄い茶色の瞳が、凄い目で俺を睨んで。

何が起きたか分からないうちに、反対側の壁に叩きつけられていた。

「切原!」

跡部さんの声は――俺を呼んだ。

「馬鹿が。本気で投げやがって。退去命令が出たらどうする気だ」

「――構いません。切原は、アンタを殴ろうとしましたから」

冷たい声だった。

目は開いてるはずなのに、まばたきをしても視界は真っ暗だった。
ぽたぽたと何かが滴り落ちる音と、跡部さんと日吉の話す声だけが聞こえた。

「切れたのか。正座はいい。医務室に行って来い」

「切原も引き摺っていきます。軽い脳震盪起こしてますね。意識はあるけど、見えてなさそうです。
 またやるかもしれませんから、気を付けて下さい」

「何があったか、後で報告に来い」

「部屋では話せません。アンタにも少しばかり関係のある話です。夕飯の後、外のコートに来てください」

「分かった」

「……ん」

何度か瞬いて、うすぼんやりと戻って来た視界に。

俺に背中を向けた日吉の首筋に、顔を埋めた跡部さんが見えた。

あれは。
あそこは。

耳の下の、髪の境目。
いつも薄赤くなっているところ。

そこを掻く癖があるなんて、嘘だ。
上から掻いて、赤くなっているのを、誤魔化してる、だけだ。

ちゅ、と、唇が離れる音がして。

跡部さんが俺を見た。

青い目と、目が合った。

不愉快そうに俺を睨むその目は言っていた。

『コイツは、俺のものだ』、って――。

ムカついて、また、殴りかかりに行きたかったけど。
俺はまだふらついて起きられなかった。

それに何よりも。

日吉が、跡部さんを庇うように振り返ったから。

「落ち着け、切原が身じろぎしただけだ。
 さっさと医務室に連れて行ってやれ。騒ぎになると面倒だ」

「分かりました」

日吉が、俺の腕を肩に回させて、担ぎ上げる。
俺を歩かせる、というよりは、力任せに引き摺る。

跡部さんと擦れ違う、その一瞬、立ち止まって。

また、唇が重なる音が、すぐそばで聞こえた。

「……また後で」

「ああ」

跡部さんと擦れ違って、便所を出る。

薄暗くなって、廊下に出たんだと分かる。

ぽた、ぽた、と、床にしずくが落ちる音は、止まらない。

引き摺られるように、階段を上りながら。

俺は、すぐ横から聞こえる、日吉の噛み殺しきれない啜り泣きの音を。


――聞こえなかった、ことにした。
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2014.04.28 (Mon)
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