慈郎ちゃん誕生日おめでとう
休み中の自主練習に出てきた慈郎が、いつものようにコートのベンチで寝ていた時のこと。
「芥川さん、熱中症になりますよ」
頭の側にペットボトルが置かれた音で、慈郎は目を覚ました。
目を開ければ、普段は慈郎を見向きもしない瞳が、真っ直ぐにコートを眺めていた。
五月にしては早すぎる夏日の到来のせいで、その日のコートはジャージがいらない気温で、むしろ日焼けを心配した方がいいくらいだ。
慈郎は顔の上にタオルを引き寄せると、大粒の汗をかいたペットボトルを引き寄せた。
「んん~、日吉ありがと~」
日吉の返事はない。
聞こえないふりをしているのかと、体を伸ばしながら起きあがってみて、慈郎は、日吉が聞こえない振りをしている訳ではないと、すぐに分かった。
日吉は、真っ直ぐに跡部を見ていた。
すぐ側から聞こえている筈の慈郎の言葉に返事もできないほど一心に、日吉は、鋭い視線でただひたすらに跡部を見つめていた。
跡部はただサーブの練習をしているだけだ。
試合でも何でもない。ただ、ボールをトスして、羽織ったジャージをはためかせながら、普通にサーブを打っているだけだ。
汗ばむくらいの直射日光の真下で、いっそ憎悪かと思うほどの視線を背に浴びて、氷帝の王様は、相変わらず美しいフォームでラケットを振っている。
「ひよC~、跡部見てんの~?」
返事をしない日吉の肩に顎を乗せて、慈郎は、日吉と同じように跡部を眺めてみた。
跡部は、日吉に背中を向けている。
時折、その横顔が見えて、ほんの時々、その青い目の下のほくろまで、視界に入ってくる程度の角度だ。
左手が高くボールをトスする。
五月の青い薄曇りの空に、黄色いボールが浮かぶ。
「はァッ!」
迸る気合いの声と共に、美しい動きで体が捻られ、ガットの中央がボールの真芯を捉えれば。
日吉の喉がごくりと鳴って。
ボールは、針の穴を通すような精密さで、サービスエリアのラインの交点の僅かに内側に、真っ直ぐに突き刺さる。
「さすが跡部だC~」
この威力と、精密なコントロールとを両立させた球を打つ事の困難さは、慈郎だって理解している。
跡部の技量なら、何度でも、望んだ所へサーブを突き刺すことができる。そしてそれだけの技量がなければ、せっかくの “眼力 ”も役には立たない。それがどれだけの練習を積み重ねて得たものなのか、慈郎には想像もつかない。
不意に、そうですね、と、振り向きもせず、吐息のような返事が返ってきて、慈郎はきょとんと瞬いた。
「聞いてたの? 日吉」
「……何をですか?」
「今の」
慈郎の問いかけに、こちらも不思議そうに日吉が答える。
「……聞こえてなければ返事はできませんよ」
それはそうだろうけど。
「跡部に見惚れてたみたいだったC~」
ぶー、と、口を鳴らしそうな慈郎を、日吉は片手で押し戻す。
「俺はあの人のフォームを研究していただけですよ」
立ち上がった日吉は跡部がしていたように、真っ直ぐにトスを上げるふりをして、ボールを打つ真似をした。
「トスを上げる少し仰け反る姿勢から、どうしたら、効率的にボールに力を加えられるのか、参考になればと思って」
跡部の姿勢は美しく、基本を忠実にさらっている。
それを真似る日吉の姿勢は、跡部に比べればまだまだぎこちないように、慈郎には見えた。
――跡部にとって自然体でも、日吉には不自然なんだC~。
演武テニスを始めたばかりの頃に比べたら、日吉のテニスは随分と洗練されてきた。
それでもまだ、日吉のテニスはまだ未完成のものなのだと、慈郎は知っている。
数百年のテニスの歴史の中で、いま、最も効率的に洗練されたものが、普段の跡部や、四天宝寺の白石がプレーするような、『基本フォームに忠実なテニス』だろう。人間の身体構造を踏まえた上で、プレーの一つ一つについて万人向けに最適化されたものだ。
しかし、普通の人間とは違う、古武術向けの体の作り方をしている日吉には、その『基本』の最適解が使えない。
だから、日吉のテニスには、『基本』のプレーを分解して更に自分のプレーに落とし込むという作業が必要だ。
ただフォームを身につけるだけの練習に比べたら遙かに時間のかかる作業を、日吉は、監督に見出されてからの短期間でこなし、そして、自分のテニスを作り上げて身に付けてきた。それでも、我流中の我流である日吉の演武テニスは、まだ完成までは程遠い。
そんな日吉の努力は、テニス部の誰もが承知している。
だから、日吉が跡部のサーブを参考にして、新しく自分のためのサーブを見つけようとしているのだということは、慈郎にもすぐに分かった。
「日吉~、あのさ~」
舞うような動きを繰り返し、フォームを探っていた日吉の腕を、慈郎が突然掴んで止めた。
「……ちょっと静かにしててくれませんか、芥川さん。邪魔しないで下さいよ」
眦を吊り上げて振り返った日吉の顔には、あからさまな怒気が浮かんでいる。
寝てばかりの慈郎に邪魔されたくはないと言いたげな顔だ。
日吉は根本的に練習を尊ぶ性格だ。
練習をおざなりにするような相手はあまり好きではないし、跡部がその高慢な態度の裏で人一倍の努力をしている事を、口には出さないが尊敬している。
練習をさぼって寝てばかりの慈郎は、つまり、日吉の尊敬とはほど遠い所にいると言っていい。
それでいて、忍足をも抑えて氷帝のNO.2として認められているのだから、日吉は慈郎をずるいとすら思っていた。
そんな慈郎に肝心な所を邪魔されたものだから、日吉は不機嫌さを隠そうともしない。
「違くて。コレさ~」
芥川が日吉の左手を両手で掴んだ。
予想外の行動をされて、日吉が困惑を露わにする。
「ぽいってするんじゃなくて~、シュッてやんないと、落ちてくる玉がブレんの」
「……?」
日吉の顔がこれでもかと顰められた。
どうやらアドバイスされているらしいと、聞く耳を向けた気持ちが半分。だが、言っている意味が分からないと、困惑する表情が半分。
慈郎にアドバイスをされるということ自体、日吉にとっては予想外のことで、ただその行動に困惑するしかない。
「日吉はぽいってしてんの。こう」
慈郎が両手で掴んだ日吉の手首を動かす。
「でも、もっとこう、シュッて」
慈郎が斜めに動かしていた日吉の手首を、間接とは逆の方向に真っ直ぐ勢いよく曲げた途端。
「痛っ!?」
日吉が悲鳴を上げた。
「あっ、ごめん~! こう~、曲がらない~?」
自分の手でやってみた慈郎が、そういや俺、手首柔らかいって言われてんだった~、と、にへへと笑う。
どこまでもマイペースな慈郎に、日吉は溜息を吐いて自分の手をさすりながら、それでもゆっくりと、手首の動きを確認していた。
「……芥川さんのようにはできませんよ」
日吉が舌を鳴らす。
「つまり、トス時の初速を上げろって事ですか?」
慈郎の言いたいことを真面目に訊こうとする日吉の問いかけに、慈郎は目を輝かせた。
「すげ~! 日吉ってさ~なんか頭いいよね~」
「芥川さん」
はしゃいだ途端に鋭く睨まれて、慈郎も腕組みをして考える。
「じゃなくて、あのさ、シュって……えーと、こう!」
特徴的な日吉の姿勢を真似ながら、慈郎が、ボールをトスする所だけを何度もやって見せる。
それをじっと見ていた日吉が、ようやく、納得したように頷いた。
「……あぁ。トスに弧を描かせるなと」
「そうそれ! 日吉なんか手首でくにってしちゃってんの!
で、そのあと大きく動く時に、ボールの落ちてくる場所が違っちゃうから、やりにくそうだな~って!」
ぱぁ、と、明るい顔で両手を叩いて頷く芥川へ眉を寄せながらも、日吉は二、三度、いつものポーズで実際にトスを上げてみて、ボールの軌跡を確認した。
「……言われてみれば、多少ずれてますね。
これじゃ確かに、スイートスポットに当てる為に調整する必要が出てくる」
「跡部はさー、トス上げる時に、すげぇがっちり土台作って、ぜってーブレねぇように上げてんの」
見てみて、と、慈郎は日吉の首を掴んで、ぐいと自分の目線まで引き寄せる。
顔のすぐ傍でサラリと日吉の長い前髪が揺れたのを感じながら、慈郎は真っ直ぐに跡部を指差した。
真っ青な青空と緑色のコートを背景に、日焼けしていない跡部の白い肌は眩しく光を跳ね返すようで、慈郎は少し目を細めた。
「ほらあれ、足から腰が、どしーん、って」
慈郎が跡部の下半身を辿るように指先で三角を描く。
「……重心が低いんですね」
「で、ぐーっと膝にもってったのを、ぐわーっとして、ぴょんってしながら、腕にもってってんの」
擬音が多い慈郎の言葉を、少しでも理解しようと、日吉は眉を寄せながらじっと跡部を見詰める。
そんな二人に気づいた向日が、ラケットを向けながら忍足に何か言っている。
だが、日吉はそれに気づいても、なお、芥川の感覚言語を解読する事に努めていた。
「……重心移動の力を、体を捻りながら跳躍する事で、腕に伝えてるって言いたいんですか?」
「多分なんかそんな感じ~」
日吉は眉を寄せた。
「……」
否定されないということは、大体の意図はつかめているということだろう。
日吉が思案する視線の先で、跡部が次のサーブを打つ。今度は、タンホイザーサーブの練習を始めたようだ。
基本を離れたそれは、もう、日吉の参考にはならない。
溜息を吐いた日吉の脇で、慈郎は自分の膝に両手を付いて頬杖を突きながら、じっと跡部を眺めていた。
「A~、サーブ打ってる時の跡部もマジマジかっけー……」
「女子みたいなこと言わないでくださいよ」
汗を拭く日吉の腕を掴んで引き寄せた慈郎が。
「キャー! 跡部様~!!」
日吉を捕まえたまま、突然、大音量で跡部に向けて叫んだ。
大声を出した慈郎を、練習の手を止めた跡部が振り返る。
「跡部様素敵~! 抱いて~!!」
掴んだ日吉の手をブンブンと振ってみせる慈郎に、眉を顰めた跡部がずんずんと向かって来て、慈郎に掴まれたままの日吉が、ひどく迷惑そうな顔をした。
「何遊んでやがる、ジロー、日吉」
「ひでー! 俺ら遊んでないC~!」
ねー、と、慈郎は日吉に同意を求めたが、腕を掴まれたままの日吉は仏頂面で首を振っただけだ。
「俺は遊んでいませんよ。芥川さんに捕まってるだけです。
助けて下さってもいいんじゃないですか」
これでもかとしかめた顔で慈郎の手をふりほどこうとするが、意外にがっちりと掴まれた手は離れてはくれない。
「ジロー一人くらいテメェであしらえるようになりやがれ」
跡部の言葉に舌を鳴らした日吉を遮るように、慈郎が、ぴょん、と、ベンチから降りて立ち上がった。
「あのね、跡部、日吉が、サーブどうしたらいいか分かんないって!」
日吉の言葉を代弁する慈郎に。
「そんな事言ってません」
日吉は、鋭く否定の言葉を吐いた。
だが跡部は、日吉ではなく、わざわざ慈郎の方を向きながら頷いて、慈郎の言葉を肯定する。
「確かに日吉はサーブが弱ぇな」
「でしょでしょ!
でもさー、跡部のフォームをじっと見て研究しようとしてもさー、日吉は跡部に見惚れちゃって肝心な所見れてないみたいなんだC~!」
突然に飛び出した、慈郎の満面の笑顔と爆弾発言に。
「なっ!?」
たじろいだ日吉が言葉を失くし。
「……ほう、それは一大事だなジローよ」
面白がった跡部は、にやりと笑いを深くする。
「だしょ!?」
慈郎と、跡部との間で交わされた、まるで示し合わせたような笑顔に、日吉は内心慌てていた。
日吉のサーブがまだまだ未熟な事など跡部は熟知しているに決まっているが、それでも、隠していた弱みを曝されてしまったような気分だ。
跡部は、ニヤついた笑みを浮かべたまま、顔は慈郎に向けている。
「俺様の美貌のせいで練習に差し障りが出るようじゃ困るな」
わざと日吉に聞かせるように、そんな、ふざけた事を言っていて。
跡部の言葉にうんうん頷いて見せた慈郎は、テンションを上げて、跡部の真似をしてみせる。
「だって跡部はヒーローみたいにかっけーC~!」
ぴょーんと跳ねた慈郎が日吉の目の前に着地する。
日吉の話しから始まったはずだというのに。
日吉はすっかり蚊帳の外だ。
「……何を言ってるんですか、アンタ達は」
日吉が跡部と慈郎の間に割って入っても。
「あとべー、あれやってー! タンホイザーサーブのカッケー奴ー!」
「ジロー、リクエストに応えてやるほど俺様は安くはねぇぜ?」
日吉を通り越える二人の会話を、日吉は邪魔できていないようで。
まるで自分などいないように続く会話に、日吉は心底不満そうな顔をした。
「……なんとでも、アンタ達で好きに言ってて下さいよ」
フンと、不快そうに鼻を鳴らして背中を向けた日吉の腕を、跡部が掴む。
つい、今の今まで日吉を会話に入れようとしなかった筈の跡部が真っ直ぐに自分を見ている事に、日吉はたじろいだ。
「……どうした日吉? いじけてんじゃねぇよ」
口元に軽い笑みを浮かべた跡部が、背けられる日吉の顔を覗き込む。
日吉は、突如、顔を覗き込んできた跡部の、丸い宝石のような美しい青の瞳から目を離せない。
そんな日吉に、跡部は更に顔を寄せていく。まるで、追い込むように。
フェンスの向こうから、雌猫たちの悲鳴が上がった。
寄せられる跡部の顔から逃げるうちに、のけぞるような姿勢になった日吉が、両手で跡部を押し退けて、もう一度、くるりと背を向ける。
「……別にいじけてなんかいません。勝手な事を言わないで下さい」
勢いよく振り払うような日吉に、跡部はククッと喉で笑った。
「日吉、今日の部活後の自主練に、特別に俺様が付き合ってやる。
直々にサーブのフォーム改善に取り組んでやるよ」
跡部が言い出した事に、日吉は、面食らった顔をして。
その日吉を見ていた慈郎は、あ、と、その目を釘付けにされた。
「……跡部さんが?」
前髪に半ば隠れた目を瞠って。
こみあげてくる嬉しさを、堪えて。
「……」
日吉は、みるみるうちに耳まで真っ赤になると、まるで俯く仕草のように、だがはっきりと、跡部に向けて頷いていた。
「すみません……よろしく、お願いします」
そう言った声はくぐもるようでひどく聞き取りづらかったが。
跡部が少し目を細めて頷けば、一層。
赤くなった顔を隠すように日吉は深々と頭を下げて、そしてそのまま、なかなか顔を上げようとはしない。
「よかったじゃん! ね、ね、ひよC~、俺のお蔭! 俺の!」
慈郎はしゃがんで日吉の顔を覗き込もうとしたが。
いつの間にか背後に来ていた樺地に、背中を鷲掴みにされて、そのまま引っ張り上げられる。
そして、跡部は、下げられたままの日吉の頭を、やや乱暴にくしゃりと撫でてやっていた。
「ジロー、テメーも少しは練習しやがれ。
向日! 忍足! 試合だ。
樺地、ジローとペア組んで、忍足を存分にコピーしてやれ。
日吉、テメーは萩之介と組んで、鳳、宍戸ペアと試合しろ」
良く通る跡部の声が、コートに響いた。
レギュラー達の練習の手が止まる。
「試合!? マジマジうっれC!」
ぴょーん、と、跳ねた慈郎の後ろでは、ようやく顔を上げた日吉が、タオルで汗を拭くようにしながら顔を覆っていた。
「各自、自分の問題点を意識しながら試合しろ。負けた方はランニング10周だ。
樫和、D2の審判に入れ。俺はD1の方に入る」
跡部の指示に、集まって来たレギュラー達が頷いている。
一足早い夏空のコート。
跡部は相変わらず偉そうに傲岸な姿勢を崩さないまま、審判台に上って、その長い足を組んだ。
「よし日吉、頑張ろうか」
「……ええ」
滝の言葉に頷いた日吉は、もう、普段通りの顔に戻っている。
その日吉の横顔を、慈郎は、ずっと、眺めていた。
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