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8月31日。
跡部景吾が再び渡独した日。
そして、氷帝学園も明日から新学期という日。
夏休みの宿題はとっくに終わらせて、明日を待つばかり。
俺も、これから、後輩に部長職の引き継ぎをしなければならないから、これから考えなければいけない事は沢山あった。
こうして、バカみたいに、もう飛行機も見えない空を眺めている暇なんかないはずだ。
――家に、帰らないと。
一時帰国という名目で夏休みに帰って来た跡部さんと、今日の午後、空港で別れた。
次に会えるのは、クリスマス休暇だろうと、跡部さんは言った。
そのあと、まっすぐ家に帰る気分にはならなくて、俺は、気が付いたら高層ビルの展望台に上っていた。
空が近い。
月が丸い。
「本日はブルームーン」と書かれたチラシと、今日限定だという菓子の案内が、展望台近くのカフェに置かれていた。
日本とドイツの時差は8時間。
今は夜の8時だから、向こうは丁度正午くらいか。
ドイツに夕方着く便だと言っていたから、今はまだ多分空の上だ。
『知ってましたか? 今日はブルームーンだそうです』
他愛もないメールを打てば、間もなく返事が帰ってきた。
『ああ、ニュースで見た。月の二度目の満月らしいな』
メールなんて、目には見えないもので繋がっている、そんなことにも安堵する。
三月に跡部さんが渡英してから、ずっと、忙しく、それに、全国で優勝するという大きな目標はあったものの。
――やっぱり、どうしようもない穴が、胸の真ん中にあったようだった。
短い間とはいえ、傍らにあった存在の大きさは、時間が経ってから余計に実感した。
そこにいるような気がして、誰もいないコートを眺めた。
声が聞こえた気がして、樺地の向こうに人影を探した事も、あった。
誰も馬鹿みたいな騒ぎを起こさない、そんな氷帝に、物足りなさを感じる事もあった。
ずっと感じていた“それ”は――こんな小さい携帯の画面に表示された『新着メール有り』の表示一つで、すっと、消えてしまったのだから、俺も随分――馬鹿だったんだな、と、今更ながらに思う。
『ブルームーンには、見ると幸せになれるって都市伝説があるそうですよ。
月なんていつでも見れるのに、ずいぶんと胡散臭い話ですけど。
でも、次のブルームーンは、俺と一緒に見て下さい』
そう打って、もう一度送信する。
返事が本当に返ってくるんだということを、確認するように。
跡部さんが、もう一度、あの――俺の携帯しか登録されていない“特別な”携帯から、俺にメールをしてくれるように
なったんだと、確かめるように。
『俺様が居なくなったせいで淋しくなったのか?』
『いえ。ブルームーンで検索したら、once in a blue moonという言葉を知ったものですから』
『“極めて稀”と“ありえない”の、二つ意味があるが、どっちの意味だ。
どっちにしてもろくでもねぇな。まあいい。約束してやるよ。青い月にかけて』
気障ったらしい言葉も、あの少し低くて深みのある声で俺の耳に蘇る気がする。
恋人同士が空を眺める高いビルの展望台で、俺は一人、それでも、周りの恋人達のきっと誰よりも舞い上がって、メールを打っていたんだと、思う。
『どちらの意味ですか』
『菫の方だ』
『スミレ? 意味がわかりません』
『次の次のブルームーンの時に教えてやる』
次の次、と言われて、展望台に張り出されていた、ブルームーンの説明書きを見に戻る。
『6年後じゃないですか。本当に、教えてくださいよ。約束してくれますか』
こんな約束をして、本当に果たされるかどうかも分からないというのに。
俺は、そう、返事を返していた。
メール送信のアイコンが二度ほど点滅して、すっと画面から消える。
送信されてしまった。
六年も後の、遠い約束を取り付ける為のメールが。
俺も二十歳になっている頃だ。
少しだけ、馬鹿な事をしたかもしれないと思う。
メール着信の振動が、手の上で俺を驚かせて。
画面を見れば、ただ、一言。
『ああ。約束する』
本当に、六年後。
その意味を、忘れずに、教えてくれるだろうか。
『そっちは夜だろう。だから、月を見てるのか。後で俺も見ることにする。
明日は学校だろう、早く寝ろよ。若、俺のブルームーン』
『どういう意味ですか』
『月よりも確実に“見ると幸せになれる”からな』
『おやすみなさい!』
そう送って、メールのやり取りを打ち切って。
何組もの恋人達が月を見上げる展望台を、俺は一人で後にした。
今夜は、早く眠ろう。
そして明日、短期留学の申請書を取りに行かないと――冬が来る前に、二つの青い月を見たいから。
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――俺はまだ、あの時は、約束が守られるなんて、心から信じてはいなかった。
六年後。
ホテルの最上階にあるバーラウンジで。
高いスツールに座って、大きい窓から一杯の星と、ブルームーンを眺めながら。
俺は、跡部さんと二人で酒を飲んでいた。
「なぁ、覚えてるか。六年前にした、約束のこと」
「……菫に掛けて、ですよね。もちろん、覚えてますよ」
「おい」
跡部さんの合図で、バーテンダーが、シェーカーでカクテルを作り始める。
目の前で、三角のカクテルグラスに、青紫のカクテルが満たされる。
「カクテル“ブルームーン”でございます」
目の前のカクテルに、跡部さんへチラと視線を向ければ、いつものようにニヤニヤ笑いながら頷く。
ほんの少し、口に含む。
花のような香りと、さっぱりした味。
そして、仄かな酸味。
跡部さんの言いたいことを量りかねて、もう一度跡部さんを見たら、跡部さんは笑みを浮かべて、指を鳴らした。
「おい。コイツに、レシピを教えてやってくれ」
「ブルームーンのレシピですか。
こちらは、ドライジンとバイオレットリキュール、それに、レモンジュースをシェークしたものです」
俺の目の前に2本のボトルが並んだ。
ジンは、跡部さんの気に入りの銘柄のもの。
見慣れない紫色のリキュールが満たされたボトルは、バイオレットリキュールと言っていたか。
レモンはどうやらフレッシュらしく、ころんと目の前に生のレモンが置かれた。
菫、つまりはバイオレットかと、そのボトルを手に取った。
「……Parfait amour?」
「フランス語だな」
頭の中で意味を引っ張ってきて、跡部さんの意味するところを悟って、俺はボトルをバーテンダーに返した。
「……そういう意味ですか、分かりました。
このカクテルは頂いても?」
「ああ」
苦笑を押さえながら、カクテルグラスに口を付ける。
そのカクテルは、俺には、随分と甘ったるく感じた。
Parfait amour……『完全な愛』が入っているのでは、それは、無理もない。