2013年のバレンタイン直前小説
生徒会室の扉が開いて、日吉が顔を見せた。
用事があるから、昼休み少し時間を下さいというメールに、OKの返事を出したのはつい先ほど。
日吉は扉を閉めて、どこか刺々しい無表情のまま、刺すような視線で俺を見る。
「跡部さん、2月14日の事なんですが」
その声に。
俺は書類から顔を上げて立ち上がった。
「……樺地、しばらく後ろ向いてろ」
「ウス」
俺がそう言えば、くるりと樺地が背中を向ける。
それを横目で確認して、俺はドアの数歩前で驚いた顔をしてる日吉に向かって、大股で歩いて行った。
「ちょ……、な、何ですか」
急に俺が立ち上がって近づいてきた事に戸惑う日吉が、逃げるように後ずさる。
だが、まっすぐ後ろに逃げなかった日吉の背後はただの壁で。
その日吉を捕えるために、俺は、壁に腕を突いて日吉の逃げ道を阻んだ。
唇が触れそうなほどに顔を近づけてやれば、日吉が覚悟したのか、ぎゅっと目を瞑る。
眉間に皺が寄る程、きつく眉を寄せている癖に。
「日吉……」
その頬に手を添えて、吐息が触れる距離で名前を呼んでやれば、ほんの少しだけ、その顔が俺の方に向けられて、唇が迎えるように、少し上を向く。
きつく閉じた瞼は、少し震えていて。
そのままじっと見ていれば、戸惑ったかのように、ゆっくりと瞼が開いて、瞳が俺をそっと見上げて。
至近距離でじっと見ていた俺へ、混乱気味の視線が問いかける。
「……俺がこうやると、ちゃんとテメーも、キス待ち顔、するんだな」
俺がクッと喉で笑った途端、日吉は、一拍も置かずに、掌底で俺の鳩尾狙って来やがった。
絶対キレると確信してたからどうにか避けられたものの、今の勢いは、まともに喰らったら、胃の内容物ブチ撒けてたに違いねぇ。
……照れ隠しには、ちょっとばかり本気が過ぎやしないか。
真っ赤な顔のまま流れるような動きで間合いを詰めようとする日吉を、逆に俺が無造作に引き寄せて抱きしめてやると、日吉はそのまま大人しくなった。
「……なんなんですか、アンタは」
俺に抱き締められたまま、俺の肩に顎を乗せて、日吉が溜息を吐く。
その背中を、猛獣でも宥めるように撫でてやりながら、俺の足を踏もうとしてくる爪先をいなさないといけないから忙しい。
「構って欲しいなら、素直にそう言えよ」
耳の中に吐息と共にそう低く囁けば、びくりと震えが走るのが分かる。
「……そんな事、言ってないでしょう。頭沸いてんじゃないですか」
所在なく降ろしている両手で、ちょっと肩を竦める仕草をしてみせて。
日吉は、殊更に呆れた顔で俺を見上げた。
その髪を、手櫛で梳いてやれば、日吉は、頭を撫でられている時の猫にそっくりな仕草で目を細める。
「やめてください。樺地は後ろ向いただけだってのに……」
机の向こうで、俺の言いつけどおり背中を向けてる樺地の方へ、チラ、と、視線を向ける。
そうは言っても、抱き締めている俺を、押し退けようともしない癖に。
ああ、多分窓に映って丸見えだろうから、樺地も居辛いだろう。
「樺地。教室に戻っていいぜ」
「……ウス」
樺地にそう言って振り返れば、樺地は律儀に背中を向けたまま一礼して、準備室の方から出て行った。
日吉が、ふう、と、詰めていた息を小さく吐き出す。
そうやって知らんふりをしていられるのも今のうちだと、謎解きをする探偵が犯人を追いつめるような気分で、俺は、逃がさないように日吉の顔を覗き込んだ。
「2月14日って、言ったな」
「……それが何か」
抱き締める俺に体重を預けたまま、日吉は俺の視線から逃げるように、顔を背けた。
けれど、それはただ、俺の肩に頬を預けて、向こう側を向いただけにすぎない。
「2月14日は、鳳の誕生日だ」
「そうです。俺は、その話をしに来たんです」
「でも、その日は、バレンタインだ」
「……そうですね」
日吉の頭の重みが、肩に掛かる。
さらりと、髪が重力に引かれて俺の肩へと流れる、さやかな音がして。
こいつは相変わらず体温低いなと、抱き締めても外の冷気を纏ったまま、なかなか温まらない体を制服越しに感じながら、俺は言葉を続けた。
「いつものテメーなら、『鳳の誕生日の事ですが』って、用件を切り出すはずだ」
「……そうですかね」
「それをわざわざ『2月14日の事なんですが』、なんて言ったってことは、俺の返事を二通り期待してたはずだ」
俺の指摘に、俺の肩の外側へ顔を向けていた日吉が、顔を起こして、俺をじっと見た。
切れ長の瞼が瞬いて、薄い茶色の瞳が俺を見る。
無表情を保ったままで俺を見上げる日吉は、獲物を狙う猫のような、そんな剣呑な空気を纏っている。
いくら不快ぶってみせても、俺様の眼力の前では、このじゃれ合いをテメーが嫌がってないってこと位、スケスケなんだぜ?
「俺が『バレンタインだな』って言えば、テメーは『いえ、鳳の誕生日の事です。自意識過剰なんじゃないですか?』って風に、俺を小馬鹿にするように言った筈だ」
「……どうですかね」
日吉が、小さく右に首を傾げ。
「そして俺が『鳳の誕生日の事か』って言ったら、テメーは『アンタは恋人がバレンタインの話しをしに来たかもとは思わないんですか』って、ごねやがっただろうな」
俺がそう言ってその目をじっと見つめれば、日吉の首は今度は左に傾いて。
そんな日吉の首の動きを阻むように、傾いた頬に手を添えて、触れそうな程に、顔を近づける。
「――つまり、テメーは、今、俺に構って欲しい、じゃれつきたいって、そんな気分だってことだ。
そうだろ? なぁ、日吉?」
素知らぬふりで日吉の背と壁の距離を詰めるように押し付ければ、今度は日吉は壁の方に体重を任せて、俺の顔を見上げる。
「……勝手に言ってて下さい」
その言葉は、決して俺の指摘を否定してはいない。
日吉は、壁に寄り掛かったまま、至近距離で視線を絡ませて。
そうして、ほんの少しだけ皮肉ぶった笑顔を見せて――、フン、と、軽く鼻を鳴らした。
「ちなみに、もし、俺が構って下さいって言ったら、アンタは俺をどう構ってくれるんですか?」
お手並み拝見とでも言いそうな顔で。
俺を値踏みでもするかのようにじろじろと眺めて。
興味本位で聞いているようなフリをして。
そうやって俺を唆してるってことが、俺にはバレバレだって分かっているのか。
「残念だが、恋人の構い方に、そう色々な方法はねぇな」
「そいつはがっかりですね。
アンタの事だから、きっと、何かとんでもない事をしてくれると思ったのに」
日吉はつまらなさそうにそんな事を言いながら、俺の胸を押して、ようやく、押し退けようとする仕草を見せた。
構ってくれないならもう離せ、なんて言うかのようだ。
しかしそれはつまり「早く構って」という天邪鬼なお誘いなんだろう。
その分かりにくい甘え方は、俺じゃねぇと気づかねーよと、心の中で思いながら。
ま、この俺様が理解してやればいいことだな、と、簡単に結論を出した。
「なぁ。さっきの顔、もう一度俺に見せろよ」
「……は?」
俺の囁きに応えるのは、冷たい返事に、少し責めるような眼差し。
押し退けようとする手に力が加わる。
バレンタインまで、もう僅かだというのに。
不機嫌な顔をして待ち切れずに飛び込んできたショコラ・サレを取り落とす程、俺は間抜けじゃない。
「腰が抜けるまでキスしてやるから。その後はお姫様待遇、それでどうだ?」
額を触れさせて、その目を見つめて。
甘い声で囁いてやる。
けれど、日吉は、狭い俺の腕の中で、むっとしたように、睨み返してきた。
「残念ですが俺はお姫様と呼ばれて喜ぶ趣味は持ってませんよ。
それにそうやって構ってしまったら、バレンタインの当日はどうするつもりなんですか」
そう言って、言葉を切って。
薄い色の瞳が、思案するように、ゆっくりと右から左に動いて。
ちら、と、俺を見て。
諦めたような溜息が漏れて。
俺がその頬に手を滑らせれば、少しだけくすぐったさそうに日吉の口元が緩んで。
俺の首に、ゆるく、日吉の腕が回る。
「……でも、他に思いつかないというんなら、仕方がないので、特別に、乗ってあげますよ」
そう言って、目を閉じて、ほんの少し俺の方へ顔を上げた。
うすく開いた唇と、閉じた目を縁取る睫毛だけが、やっぱり、ほんの少し震えている。
――どうして、この唇は素直じゃないんだか。
そう思いながら。
今度こそ、俺に差し出された唇をじっくりと味わうために。
俺も、瞼を伏せて。
その体を引き寄せた。
待ちきれずに少しばかりフライングした、“とっておき”の方法に。
……コイツ、当日はどうするつもりなんだろうな、と、少し楽しみに思いながら。
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