誰もいない玉座:原作終了後~新テニ開始前の間を繋ぐお話。
跡部景吾×日吉若。17話以降R18指定。
pixivにて1話~25話まで掲載後、文庫化作業のため中断。
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「おう、遅かったな長太郎」
「遅くなってすみません宍戸さん、少し日吉と話してて……」
夕暮れの光に、正レギュラー専用部室は茜色に染まっていた。
淡く夕日を含んで、あるかなきかの風にカーテンがわずかに揺れ。
広い部屋に七つの椅子が浮かびあがる。
その一つに座ったまま外を眺めていた宍戸は、ようやく訪れた待ち人に軽く手を挙げた。
「いいっていいって、シャワー浴びたりしてたし、それほど待ってねえよ」
長い長い、それでいてあっという間の全国大会が終わり、三年生は引退までの僅かな時間を思い思いに過ごしている。
全国大会が終わって、宍戸の表情は、憑き物が落ちたかのように晴れやかだ。
夏の終わりの夕方の橙の日差しが、宍戸の顔に濃い影をところどころに落とす。
すぐそばに迫った秋を感じさせる色を、鳳は少し眩しそうに見つめた。
宍戸は、どうせエスカレーターで高等部へ進学するからと、まだしばらくは部活へ顔を出すことに決めていた。
氷帝学園では、外部への受験や留学などの予定がなければ、引退しても部活を続ける三年生も多い。
部長ほか役職の交代は短い秋休みの後と決まっていた。
すでに次の部長は日吉若に決まり、鳳も、跡部の代では不要とされた副部長になることが決まった。
樺地も資料管理を1年に引き継ぎ、来年は会計担当になるという。
長い前髪で分かりにくい日吉の顔が、ここ何日かずっと緊張を張り付けたままであったことを、ふと宍戸は思い出す。
「若も大変なんだろ? あの跡部の後任だしな。
長太郎なんか手本にするべき先輩もいねえし。
あのヤロウ、まったく厄介なことしてくれやがる」
苦虫を噛み潰したような宍戸の声に、鳳は苦笑する。
「そうですね。
でも俺、今度の青学との合同練習の時に、大石さんと話する機会を作ってもらえることになりました。
きっと勉強になるだろうって」
今年の全国を制覇した青学の副部長であり、一時は手塚不在の青学を支ていた大石の話なら、きっとこれからの役に立つだろうと。
そう言って、跡部と榊に話を通し、青学と打ち合わせを済ませてきたのは日吉だった。
日吉は部長職を学ぶためにと、ここ数日跡部と行動を共にし、時にその仕事の一部をこなし始めている。
今日は跡部が生徒会の引き継ぎで不在のため、日吉が跡部の代わりに練習の指示を出していた。
嬉しそうな笑顔の鳳を見上げて、宍戸は逆さにかぶっていた帽子を正しい方向にかぶりなおす。
ふんと腕組みしてみせる仕草は誰かを思わせた。
「……真田は見習うなよ、長太郎ぉ?」
「俺だってそのくらいわかってますよ宍戸さん。立海大附属のやり方は氷帝向きじゃありません」
くすくすと声を上げて笑った鳳が、ふと遠くを見るように目を細めた。
その視線に、どこか憂いのようなものを感じた宍戸が、ちらりと鳳の視線の先を見る。
とうに解散を告げられたはずのテニスコートから、ボールの音が聞こえる。
壁打ちだろうか。
その音はほぼ一定のリズムで途切れることなく続いている。
氷帝学園では、生徒の自主性を重んじるため、希望があれば部活時間後の自主練も自由だ。
ナイター設備も整っており、高度な管理システムを誇るクラブハウスは、準レギュラー以上であれば24時間自由に出入りできる。
きっと誰かが残って練習しているのだろう。
「何かあったなら言えよ、長太郎」
宍戸の声に、鳳がうつむく。
「……宍戸さん、俺……日吉が心配です……」
鳳がそっと右の肩を押さえた。
掌の下には正レギュラーを表す7本のライン。
215分の7。
ダブルス二組、シングルス三人のごく限られた精鋭。
それが本来の氷帝学園の正レギュラーだ。
今は、それが八人いる。
ありえない「予備席」。
一つ足りない椅子。
敗退を乗り越えてダブルスに転向し、戻って来た宍戸。
宍戸が抜けた穴を埋めるため繰り上げられた日吉は、宍戸が戻った以上、「正レギュラーにふさわしくない」という声もいまだ根強くある。
しかも大会前は一人の準レギュラーに過ぎなかった日吉の部長への大抜擢は、部内をしばらくの間騒がせた。
試合で大きな活躍があった訳では決してない。
現に、関東も全国も、敗退した試合では、日吉は黒星しか上げられていない。
心中穏やかでない二年生は多く、日吉はそれにも悩まされるだろうことは想像に難くなかった。
* * * * *
黄色いボールを追ううちに雑念が消えていく。
壁と、ボールと、次第に濃くなってゆく影が、日吉の意識の大部分を占めるようになる。
夕方になり、より一層不快感を増す高い湿度。
風はささやかすぎる空気の動きに過ぎず、全く汗が引かない。
ラケットがボールを捉えれば、腕に肩に、心地よい反動が返り。
予測通りの軌跡を描いて、硬球が奏でる心地よい高音が耳から背中へと抜ける。
右に。
左に。
こう打てばこう返ると、すでに体が覚えている。
考えるまでもなく、見えてくる軌跡がある。
集中すれば視界が広がり、イメージ通りに、打球を、体を動かすことができた。
切りそろえられた前髪が、汗を含んで、額を叩く。
空気の動き。筋肉の軋み。
ボールに打ち付けられるラケットが生み出す力のベクトルを感じる。
夕方の湿度の高い不快な空気の中だというのに、意識は鮮明で爽快だ。
――まだだ。もっと。
夏の遅い夕暮れは、まだボールを黄色い閃光として見せてくれる。
左へ走りながら、バウンドするボールを追いかける。
額から、背中から、筋肉の動きに合わせて汗が流れ落ちていく。
右へ打ち返すと同時に、古武術独特の重心移動で、体を傾けつつグラウンドを蹴る。
比嘉中の縮地法に近い、いずれ源を同じくする武術の動き。
ラケットを持つ手を捻り姿勢を低く落とし、甲斐の“海賊の角笛”より鋭い動きでラケットを振り抜く。
ストレートに打ったつもりだったが、狙いよりもやや左に逸れたのを見て、軽く舌打ちし、打球を止める。
軽くバウンドしながら転がるボールを見ていると、集中が緩み、圧縮されていた時間がゆっくりと動き出すような錯覚が起きた。
眩暈にも似た弛緩。
緊張から解放された心を落ちつけようと、日吉は、大きく息を吸いながら空を仰ぐ。
「まだ残ってたのか、日吉」
凛と響いた声が、周囲の気温を下げる錯覚。
意識せずとも自然背筋が伸びた。
「……跡部部長?」
不意に降ってきた声に、日吉は腕で汗を拭いながら、その姿を探す。
気づけば、随分とあたりは薄暗くなっていた。
はっきりとよく通る声は、二階半ほどの高さから降ってくる。
校舎棟の庭園からグラウンドに降りる階段の上。
手すりに寄りかかって日吉を見下ろしている跡部がそこにいた。
制服姿の跡部は、片手に書類入れを持っていて、生徒会の帰りであることを伺わせた。
「お前のダッシュ、木手の動きに似てきたんじゃねーのか?」
「似てるというより、もとは同じものです」
「ハッ、そういう意味じゃねえ。
木手の縮地法はもっとシャープだが、お前の動き出しもキレてきたぜ?」
日吉の位置からでは、跡部の顔や表情がはっきりとは見えない。
しかし、跡部の声に混ざった揶揄するような響きを聞き逃すわけはなかった。
姿勢のいい日吉の体に、緊張が走る。
悔しさに握りしめられるラケットのグリップが微かに悲鳴を上げた。
「……それ、褒めてるつもりですか、もしかして」
その返事はなく、いつもの傲岸な笑みの気配。
視力が落ちている日吉には、薄暗いこの時間に頭上の跡部は見えにくい。
「もう終わりか? テメェの練習見てやるのも久しぶりだ、続けろよ」
跡部は日吉を促すが、日吉はことさらに肩を竦め、ラケットの先でボールを拾い上げた。
「暗くなってきたので、終わりにします……ここしばらく、外部へのお供ばかりでした。仕方ないでしょう」
日吉は汗を拭きながら片づけを始めるが、本当はもっと練習を続けるつもりだった。
氷帝にはナイター設備もある。
ここ最近は、部員の練習計画のためのスポーツ理論の受講や、氷帝テニス部のプロ講師選考過程の見学、出入りのスポーツショップやテニス協会への挨拶など、練習には直接参加することができない日も多い。
日吉が、貴重な時間に練習を取りやめる理由はたった一つしかない。
跡部が自分の練習を見物するのが嫌だったからだ。
「アーン? コミュ障の部長になるつもりなら止めねえぞ?」
どこか楽しげな口調に、チリリと首筋がざわめいた。
わざわざあんな高みから見下ろしてくる不遜な視線が、日吉の平静を掻き乱す。
「別に……文句がある訳じゃありません」
グリップを握る手に、無意識、力が入る。
キリ、とテーピングが手の中で軋んだ。
口元が強張る。奥歯に力が籠る。
ゆっくりと息を吸って、胸まで空気を入れた。
その顔を睨み付けようと、視線を上げた時だった。
「ッ……!」
音もなく、跡部の頭上、ナイター用の照明に光が灯る。
コートを照らす強い光に、白く視界を奪われた。
眩んだ目に、やや外側に跳ねた髪のシルエットが残像する。
「なんだ、俺様に目が眩んだか日吉ィ?」
階段を下りる足音が近づいてくる。
眩しさに翳した手の指の隙間から、軽やかな足取りで階段を下りてくる跡部を見た。
「……なに馬鹿な事言っているんですか、照明が眩しいだけです」
翳した手は降ろさずに、もう一度、地を踏みしめる足に力を込める。
滲んだ涙は、眩しさのせいだけではなかった。
* * * * *
いつも見ていたのは背中だった。
いつでもすっとまっすぐに綺麗に伸びた背中。
灰色みを帯びた金髪に近い色の髪はゆるく外側に跳ねて。
ゆるく羽織った氷帝ジャージと、憎たらしくなるほど長い脚もまっすぐに伸び。
いつかあの背中を超えてやるのだと毎日見飽きるほどに睨み続けた。
「びびってんじゃねえ、日吉。
もっと勢いよく踏み込まねぇと届かねえぞ!」
いま目に入るのは、射抜かれるほどの強い視線。
寒気がするほど整った顔が浮かべる、獰猛な力強い笑み。
クロスに飛ぶ打球に、思い切りコートを蹴る。
地面すれすれの低い姿勢で、反対側の足の側面も使って横に跳んだ。
ガットではなくフレームを使って打球を返しながら、地面についた反動で跳ね起き、体勢を立て直す。
おそらくはまたクロス、だが、裏をかいてもう一度ストレートでこちらに来る可能性もある。
輪舞曲を恐れてネットぎりぎりを掠めたボールは、減速し落ちようとするが、そこにはすでに追いついたラケットが待ち受けている。
「やるじゃねーの、ほら、これには追いつけるのかよ?」
ぽーん、と丸い軌道。
ネット際に落ちるフォアハンドのドロップボレー。
倒れ込みながら地を蹴り飛び込む。比嘉中のように一歩では追いつけない。二歩目は体を捻りながら打球に腕を伸ばす。
追いついた、が、ボールはネットに当って跳ね返ってきた。
「惜しかったな、日吉? もう少し中央に出てりゃ返せたな」
もてあそぶ口調と、楽しげな笑み。
ラケットでとんとんと自分の肩を叩くその顔には、わずかな汗しか浮いていない。
「……次、お願いします」
「もう帰るって言ってなかったか、日吉?」
「跡部部長が試合してやるって言わなければそのつもりでした」
いきなりのタンホイザーサーブ。
不規則にバウンドするその方向に上がる瞬間を叩いて返す。
「お前、俺とそんなに試合したいのか」
打ち返しながら、くくっと喉で笑う声が聞こえた。
冬の朝の凍てついた空のような色の瞳が、すぅと細められる。
「……悪いですか」
「アーン?
俺みたいな強い奴と試合したくなるのは当たり前だろう?」
「……くそっ! 言ってろ!」
「俺様に対する口の利き方がなってねぇぞ日吉ィ!」
「……知るか! 俺は樺地じゃない!」
軽口を叩きながらのラリーだというのに、ボールは嫌なところを狙ってくる。
そのショットに甘さは一切ない。
新しいステップを見るためか、やたらに打球を前後左右に振ってくる。
氷の瞳が浮かべる猛獣の笑みは、捕食者のそれ。
俺を喰らい噛み砕き飲み込もうとする。
「……そんなことは知ってる。お前は日吉若だろう?」
可笑しくて耐えられないという風に、唇が綺麗な弧を描く。
見下ろしてくる視線は、ああ、俺の姿勢が低いからか。
古武術の構えで体を捻りつつ返した打球の位置には、すでにラケット。
しかも、絶好球と言える位置に浮かぶ。
「ほぉら、凍れ」
動けない。
体が凍りつくような、まったく反応できない位置へのスマッシュ。
茫然と打球を見送った俺に、フンと軽く笑う声が聞こえた。
「これで3-0だな」
当然のようなスコアの宣告。
氷帝の絶対の王の声。
気を取り直してラケットを構えようとした途端、くらりと眩暈がした。
どすん、と、コートに膝が付く。
ざっと、頭から温度が下がり、上下左右が一瞬消えてしまう。
「……おい、日吉?」
なかなか立ち上がらない俺の様子を訝しんだか、ネットを飛び越えて跡部部長が近づいてくる。
体を支えきれずに、コートに腕をついた……つもりだった。
コートに付こうとしたその腕を抱えられ、ぐっと引き上げられる感触があった。
「なんだ、脱水症状か、それとも貧血か?
ちょっと横になって休め日吉」
「……すみません」
ベンチに横になれば、汗でびしょびしょのユニフォームが背中に張り付く。
このユニフォームは吸湿速乾の素材のはずなのに、こんな不快なのは初めてだ。
空気が足りない。
口をあけて呼吸する。
この背筋が冷える感じは貧血だろうかと、俺の体の外にあるように思える脳が考える。
「ほら飲め、あと汗拭け」
頭にぱさりとやわらかい感触。
そして、手にはドリンクを持たされた感触があった。
体を起こそうとすると、ずきんとこめかみが痛む。
ふらついた体を、支える腕があった。
「……ありがとうございます」
「俺にこんなことさせるんじゃねえ」
ああ、声が不機嫌になった。
さっきまであんなに楽しそうだったのに。
俺が倒れて楽しみを中断してしまったせいか。
言葉にならない不快感に、胸元がずしりと重くなる。
歯に沁みるほど冷たいドリンクがやけに旨い。
全くなじみのない味なのは、部長のドリンクだからだろうか。
ようやく目の焦点が合ってみれば、手の中にあった保冷用のドリンクホルダーは、やはり部長のものだった。
冷たい。
うまい。
半分ほどを一気に飲み干して、はぁ、と、息を吐きながらベンチの背もたれに寄りかかる。
「今まで何時間やってたんだ?」
「……いま何時ですか」
「八時半だ」
ぐるぐると回る不安定な脳味噌では、数を数えるのも一苦労だ。
曲げた指に感覚がなくて、仕方なく思い出したまま口にする。
「……三時半には来てましたけど、後輩の練習見てたりもしましたから、そんなにしてないです」
「朝は」
呼吸が整わない。
怒りが籠ったような声を、遠くにある耳が、他人事のように聞いている感覚。
「朝稽古が…五時半からで…、学校に来たのは七時…宍戸先輩の次でした」
「寝たのは?」
「今日テストあったんで……一時半頃……」
視界が揺れる。
頭に拳が落ちた、と、気づいたのは、コートが横に見えたからだ。
俺にとってはごくごく軽い衝撃だったが、今の体にはそうではなかったらしく、そのままずるりと横に体が傾いだらしい。
目を閉じて、息をする。
頬の下がやわらかい。
ああ、これ。
やばい。
跡部部長の膝枕なんて、雌猫共に見られたら殺される。
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