跡日の心霊スポットお花見デート
※新刊「櫻の下には」の試し読み版となります
「跡部さん、デート、……しませんか?」
日吉からの唐突な提案に、俺は危うくドライヤーを取り落とす所だった。
「テメーからのお誘いとは珍しいじゃねーの。どんな風の吹き回しだ?」
麗らかな春の日。いつも通り俺様の屋敷での週末デートという名の特訓を終えて、日吉は期待に満ちた眼差しで俺を見詰めてきた。
コートで俺と一試合終えて、汗をシャワーで流したばかりの日吉は、シャツとジーンズだけのラフな格好で、髪の水分さえまだ乾かし切っちゃいねぇ。もっとも、日吉の奴はいつも髪を洗ったら洗いっぱなしで、幾ら痛むと言ってやってもドライヤーなんか掛けはしねぇんだが。
俺が掛けるドライヤーの音にかき消されないよう、日吉は少し声を張った。
「夜の公園に行きたいんです。ご存じありませんか、大学部の校舎の近くにある、昔、武家屋敷の庭園だったという、桜が綺麗な公園らしいんですが」
俺はいつも、濡れたままの髪の日吉をドレッサーに座らせて、その癖のない髪を乾かしてやっていた。日吉は髪を弄られるのは別に嫌ではないらしく、やりたいのなら好きにやればいいと言って俺にされるがままになっている。
とはいえ、俺も日吉のサラサラの髪に触るのは好きだ。
今日も日吉を促してドレッサーに座らせようとしていた所で、日吉は鏡の前に座って話を続ける。日吉の事だから、そんな甘い誘いには何か魂胆があるんだろうが、話を聞いてやるくらいはしてやってもいい。
「ああ、どこかの藩の江戸屋敷跡って公園か。確か、枝垂れ桜で有名らしいな。桜が綺麗な公園なら、これからの季節は夜桜でさぞロマンティックなんじゃねーか?」
「えぇ、ひときわ大きな枝垂桜があって、そこに、 “出る ”そうなんです」
俺が向けたドライヤーの風に目を細めながら、日吉が頷く。
なるほど、と、俺も納得した。
デートと言う建前で、夜に日吉の大好きな幽霊話のある場所に行きてぇって話か。
「枝垂れ桜の下に最近ベンチができたそうなんですが、桜の時期になると、そこに、これが出るらしいんです」
日吉が、胸の前に両手を垂らして見せた。
「んな事言って、今までのデートでも出たためしがねぇじゃねぇか」
鏡越しに俺を睨んだ日吉に構わず、その後頭部の髪の中に指を入れる。その一瞬わずかに首を竦めた日吉は、やや興奮ぎみに首を反らして逆さに俺を見上げた。
クソ、可愛い仕草してんじゃねぇよ。
「それが、跡部さん。よりによってうちの兄が大学部の友人と一緒に見たらしいんです。兄が見て俺に見れないなんて事はないと思って。それはもう凄かったみたいで、熱っぽく電話してたのをたまたま耳にして……それなら俺も是非行きたい、と」
くっ、と、悔しそうに日吉が拳を握った。
兄貴が幽霊を見れて、自分が見れていないのがよっぽど悔しいらしい。
「テメーの兄貴もオカルト好きだったのか?」
日吉の兄貴と幽霊が結びつかず、俺は首を傾げた。
日吉は時々家族の話をするが、歳の離れた兄貴のすることは、日吉にとっちゃ何もかもが気に入らねぇらしい。憎々しげに日吉の口から語られる断片から推察するに、どうやら日吉の兄貴殿は、弟をからかうのが好きな、茶目っ気に溢れた人物のようだ。
神経質な日吉とは結構対照的らしい、日吉曰く繊細さの欠片もないという人物が、果たしてぼんやりとした幽霊なんかを見るだろうか?
見たにしても、真剣に受け止めそうにはとても思えねぇ。
そう思っていたら、日吉も頷いて、だから信憑性があるんじゃないですか、と、熱っぽく語った。
日吉と兄貴は、傍から見たらよく似ている可能性も捨てきれねぇな。
「……どうやら、兄貴は花見で最初からその公園にいたらしいんです。桜で有名な場所ですから。大勢で夜中まで飲んでて、周りに人気がなくなった頃に見たらしくて。
なんでそういったものに興味のない兄貴が見て、興味のある俺が見れないのか、非常に悔しい所なんですけどね」
……幽霊の奴にしてみりゃ、珍獣扱いで怯えもしねぇオカルト愛好家に見つかって興味本位に写真撮られるよりは、怯えて悲鳴を上げる一般人の前に出た方が出る甲斐もあるってもんなんじゃねぇのか。
もっともそれは、連中が存在したとして、相手をビビらせるために出てくる事を前提とした仮説じゃあるが。
それを言ったら日吉はまた変にいじけるんだろうと、俺は乾ききった日吉の頭を撫でて、ドライヤーを仕舞いながら尋ねてやった。
「それで、いつ行きたい?」
日吉の我儘を叶えてやる為の質問だ。
日吉がまた仰け反るように、立っている俺を見上げると。
俺が乾かした癖のない髪が、ふわりと、光に透ける。
さらさらの手触りに仕上げた日吉の髪は、羨ましい位に真っ直ぐな癖のない髪で、ずっと触っていたい心地良さだ。愛おしい恋人の髪の毛だから尚更なのかもしれねぇ。
「俺は今日でも明日でも。桜の咲いている内の方が良いんじゃないですか」
「また、随分と急なお誘いだな」
「花が終わると同時に幽霊も終わったら困りますからね」
当然、という顔の日吉に少しばかり意地悪を言ってやりたくなる。
珍しいテメーからのデートの誘いに、気分を良くした俺が間抜けみてぇじゃねぇか。
たまには、日吉の方から甘いアプローチを寄越して欲しいなんて願望があったって、恋人同士なら贅沢って程のもんじゃねぇだろうに、この恋人は俺じゃなくて幽霊なんぞに逢いたがってる。
だから、不満が表情に出ているのを承知の上で、俺は日吉に言ってやった。
「そんなに幽霊がいいなら、俺じゃなく幽霊とテニスしたらいいじゃねぇか。どうせ見るなら俺様を見てやがれ」
俺はたっぷりと皮肉を込めたつもりで、日吉にそう言ってやった。
俺にしちゃ子供っぽい嫉妬だし、理論の筋も通りゃしねぇ。
だが、日吉はほんの少し照れた顔をして、視線を俺から逸らした。
「急になにを言い出すんですか。跡部さん、アンタの事は――いつも見てるじゃないですか」
顔を戻して横を向いた、日吉の耳の後ろが、赤い。
どうやら日吉は俺に睦言を言ったつもりらしい。
俺様が常に雌猫共の耳目を引きつけて離さねぇような男だって事を、テメー、ちゃんと分かってねぇのか?
いつも見てるって、ンな当然の事が俺様への愛情表現になると思ってんじゃねーよ。
それは、ただの事実じゃねぇかと言いたくなって、だが、日吉は変わらず俺の方を見ようとしないまま、明後日の方を向いている。
耳の後ろは可哀想な程真っ赤だ。
頑として俺の方を見ようとしないその照れっぷりがひどく可愛く思えてくる。
あぁ、クソ。普段はしれっとした顔してやがる癖に、可愛い事言った自覚で照れてそっぽ向くなんて、テメーのキャラじゃねぇだろうが。
気まずいのか二度も三度も瞬きをして、俺をその切れ長の目で鏡越しに伺う。
ほんの少しの不快感が、みるみる薄まって苦笑に変わる。
「……テメーが俺様から目を離せねぇの間違いだろ、アーン?」
そう言って鼻の頭を摘まんでやったら、ぎゅっと目を瞑って、ぶすくれたように顔を背けやがった。
「……悪いですか」
日吉はそう言って唇を尖らせた。
――否定しねぇのかよ。
普段は三白眼で藪睨みして来るような、野郎のふくれっ面すら可愛く見えてくるんだから、本当に、恋という奴は恐ろしい病気の一種に違いない。
それでなくても、シャワー後の体に染みついた甘い花の匂いにそそられるってのに。
俺は、前に回り込んでスツールに座る日吉の膝の上に座ってやった。
いつもとは逆の行動もたまには悪くねぇだろう。
それに意表を突かれたのか、日吉はまじまじと俺を見た。
「……テメーは本当に、全く、可愛い恋人だぜ」
俺の言葉に眉をしかめて何か言おうとした、日吉のその唇を塞いでやった。
じろ、と、俺を睨んで後ろに顔を引こうとするのを、逃がさないよう片手で捕えて追い詰める。乾いた砂の色をした瞳が、俺の目を映して瞬く。
「デートになら、付き合ってやるよ」
俺と日吉は睨み合ったまま、舌で音を立てて、唇を軽く食んで、角度を変えた。
俺が乾かしてやった髪が、サラリと音を立てて流れる。
ん、と、鼻に抜ける吐息が色っぽい。
何度も触れ合ううちに、俺を睨み付ける目の力が抜けて、少し潤んで、首筋を捕えた手に掛かっていた力を感じなくなる。
日吉の方から絡めてきた舌へ軽く触れ返して、日吉がもう少し欲しい気分になった所で、身を引いてやった。
吐息が、いじがわるいですね、と、俺に恨み言を言う。
曲がっちまった機嫌を取るように、何度も、唇に軽いキスを繰り返す。
三つのキスに、一つくらいおずおず返事が返ってきて、その背中を抱き締めた。
日吉は、熱を持った手を俺の腰に回して、甘えるように胸を押し付けてくる。
「……デートで、いいです」
そうして、日吉は、小さい声で俺に囁いた。
「なら、今夜のデートの前に、俺達が恋人同士だってことを、もう一度確かめておこうじゃねーの」
シャワーを浴びたばかりという事実は、ひとまず、意識の外に追いやって。
まずは、気難しい恋人との蜜のような時間を愉しむことにした。
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